五木ひろしの光と影<4>都はるみの前座では「引っ込め!」とヤジられ…
「いろいろと苦労した人だけに、おそらく、あの人の悪口をいうものは、歌の関係者では、ひとりもいなかったと思います」と人気歌手の近江俊郎は上原の死を悼んだが、生き馬の目を抜く芸能の世界、上原も敵は少なくなかったのかもしれない。そうでなくても、この時期の日本コロムビアには、遠藤実、市川昭介、船村徹と実力派の作曲家が名を連ねていた。亡くなったライバルの弟子を殊更にプッシュしてやろうという人情家がいなかったか、「こいつは売れないだろう」と見切りをつけられたか、そのどちらか、もしくは、どちらでもあるのだろう。
■飼い殺しだったコロムビアを離れポリドールへ
その後、松山まさるは「働きながら学ぶ友」(作詞・白鳥朝詠/作曲・市川昭介)という曲を最後に日本コロムビアから新曲がリリースされることはなくなった。飼い殺しにされたのだ。結局この翌年、デビュー以来の日本コロムビアを離れ、ポリドールレコード(現・ユニバーサルミュージック)に移籍、芸名も心機一転「一条英一」と改名した。おそらく「一から出直し」という意味が込められていたのだろう。