親父は「〇〇ちゃん」と呼ばれる芸名がいいと考え、「こぶ平」に
正蔵は中学2年の時に、古今亭志ん朝の落語に魅せられ、独演会に出かけた。
「トリで演じたのが、『花見の仇討』でした。素晴らしかったです。それで父(先代三平)に、志ん朝師匠に弟子入りしたいと言ったら、困った顔をしました。『志ん朝さんは優しい人だから、おまえに厳しくしないだろう』って。それなら自分の弟子にして、厳しく育てようと思ったんでしょう。弟子入りが許されたその日のうちに、子供部屋から弟子の部屋に移されました」
1978年、15歳の年である。息子から弟子に立場が変わった。
「弟子の芸名を付ける際、親父は『〇〇ちゃん』と呼ばれる名前がいいと考えてました。こん平師匠の『こんちゃん』みたいに。それで付いたのがこぶ平。こぶは味が出る。『こぶちゃん』と呼ばれて親しみやすい、ということですね」
高校に入学したが、寄席で前座修業をしながらなので、出席率は悪かったという。
「学校も落語家ということで大目に見てくれたんですね。寄席の楽屋に入ったばかりの頃、談志師匠と初めてお会いしました。『根岸(三平)の倅か?』と聞かれたので、『はい』と答えると、こうおっしゃいました。『あのな。倅が父親の跡を継ぐことは、自分の生き方の肯定である』と。当時の僕は、意味がわからなかった(笑)。後年、自分の倅(たま平)が落語家になった時、初めてわかりました。自分の生き方を倅に肯定されたんだって」