「妖怪の孫」の先行試写会で偶然並んで座った3人の1968年生まれ
もちろん当時の山上被告は無名の存在。ましてや匿名アカウント。毎日届く多数のダイレクトメッセージのなかに埋没したとしても、誰も著者を責めることはできない。だが事件後に進めた取材の過程で、被告の弁護士から「徹也さんがエイトさんへ事件前にメッセージを送ったけど……」と聞いた著者は狼狽するのだ。なんと、そんなことが。自分は事件を止められたのではないか。そこから始まる懊悩。著者の筆致は十分に抑制を効かせつつも、それでも松本清張作品ばりの緊張感に満ちている。この顛末は実際に本書を読んで確かめていただきたい。多くのひとたちが鈴木エイトの動きと言葉から目が離せない大きな理由は、この〈当事者感〉なのだと思い当たるはずだ。
対してKダブさんの新刊は『Kダブシャインの学問のすゝめ』(星海社新書)。ここでも凄まじい説得力の最大の担保になっているのは〈当事者感〉なのだった。「もうすでに長い間、日本社会の力が昔に比べ弱くなっているのではないか」と感じてきた著者は、歌詞でも一貫して教育の大切さを訴えてきたラッパーである。本書はOECD(経済協力開発機構)による高校生の学習到達度調査の結果をふまえて、日本人の読解力、つまり言葉の理解力の低下について語るところから始まる。先駆者が皆無だった時代から、言葉を使いこなすことでラッパーとして生計を立ててきた著者。「民主主義は『多数決』と言われるが決してそれだけではない」など、箴言集としても機能する本だ。
今年まだ1冊の単著も出していないぼくにとって、これ以上ない刺激をもたらす2冊である。