79年の紅白で「カサブランカ・ダンディ」を歌った数時間後、80年元旦に「TOKIO」を歌った
そもそも79年の音楽シーンは、沢田研二、山口百恵、ピンク・レディーらの歌謡曲勢を、新進気鋭のニューミュージック勢が、ギリギリまで追い詰めた格好のものだったのだ(詳しくは拙著「1979年の歌謡曲」=彩流社=参照)。
しかし、歌謡曲勢として「カサブランカ・ダンディ」を歌い上げた数時間後、沢田研二は全民放の画面の中で、パラシュートを背負ってTOKIO(東京)の時空へと飛んだのだ。
その姿を見て、阿久悠とはまったく違う、「TOKIO」の荒唐無稽な歌詞を書いた糸井重里は、こう思ったという--「俺、運命は変わるかもしれない」と(ほぼ日刊イトイ新聞)。その予感は当たり、この後すぐ、糸井は時代の寵児になるのだが。
その日、80年が、80年代がやってきた。田原俊彦、松田聖子、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、漫才ブーム……。くすんでいた70年代とはまったく違う、パステルカラーでキラキラと輝くニューウエーブな1年が。
しかし、「TOKIO」が真にセンセーショナルだったのは、その登場の仕方や、ファッションより、むしろサウンドそのものだった。