<第1回>紙加工業を営んでいた親父は阪神のタニマチだった
入院したのは俺が阪神に入団して3年目。だから俺の結婚式の席次表も病室で決めた。
親父の草野球チームでは中学生の俺が投手やって大人相手に投げていた。バックには阪神の若手や、久代(義明)さんや野田(征稔)さんらが守ったこともあったな。
「オヤジさんはタイガースをこよなく愛してたから日本一を見て安心して天国へ行ったんじゃないのか」
そんなこという人もいるけど、俺はそうは思わんかった。
寝たきりということでもなかったし、病院と自宅を行ったり来たりしてたからな。毎年オールスターの時はホテル阪神で「岡田会」(後援会)の人らが集まるんやけど、その年も病院を抜け出して出席してたから、悪くなっている感じはなかった。まさかその1カ月半後になあ……。
後で聞いたところによれば、実際はかなり体力が落ちてたらしい。おふくろは、俺に心配かけまいと黙ってたみたいや。親父とはいつも一緒やったから、おふくろは俺らのこと「一卵性親子」なんていってたな。野球だけやなくて、金銭感覚や仕事、食べ物の好みも、みんな親父の影響を受けた。
「野球選手は目が大事やから、教科書以外の本は読まんでいい!」
こう言われたのは、5歳の時だった。