日本人初の8mジャンパーは引退後、企業戦士から帰らぬ人に
しかし、選手時代は「8」の字にこだわったように、異常と言っていいほど繊細な神経の持ち主だった山田は、精神的にも肉体的にも参っていた。ストレスという目に見えない敵と戦っていたのだ。事実、81年3月に39歳を迎えた頃は膵臓を悪化させ、入院している。
■異国の地に栄転してから3カ月後
そして、病み上がりながら前号で述べたように、これまた異例の人事で39歳にして韓国の慶州東急ホテルの総支配人に抜擢された。渡韓後も全神経をとがらせ、働きまくったが、苦労も絶えなかった。300人ほどの従業員の中で、日本語を話せるのは副支配人のみ……。
異国の地に栄転してから3カ月後の10月21日、山田は脳血栓で倒れ、帰らぬ人となった。母の展子が私に叫ぶように語ったごとく、息子の死は「残酷物語」であった。企業戦士としての末路である「戦死」とも言えた。
山田の師匠である朝隈善郎は、戦前の36年ベルリン大会に出場した走り高跳びのオリンピアン。2008年に94歳で鬼籍に入り、愛弟子の分まで人生を全うした。