日本人初8m超えのため 山田宏臣さんは“8”にこだわリ続けた
1964年東京五輪・1968年メキシコ五輪・走り幅跳び代表 山田宏臣さん(上)
山田宏臣の死は、まさしく企業戦士の末路である“戦死”だった――。
1984年ロスオリンピック開催中だ。母・展子が私に発した言葉は重く、叫ぶようにこう言った。
「残酷物語ですよ。若い息子を死に追いやったのは、オリンピックです。ほかの人の何十倍も体をいじめて、『ぼくは40歳くらいで死ぬんだ』と言っていました。オリンピックなんか見ません!」
その3年前の81年7月、山田は韓国の慶州東急ホテルの総支配人として栄転したが、3カ月後の10月21日、脳血栓で倒れ、39歳で客死したのだ。
「先生、2年もすれば韓国語がペラペラになって帰ってきます。それまでは死なないでくださいよ」
韓国に飛び立つ前に山田は、京都市在住の67歳になるコーチの朝隈善郎(36年ベルリン五輪走り高跳び6位)を訪ね、そう言って笑った。だが、これが師匠と愛弟子の最後の別れとなってしまう。
オリンピック強化選手の山田が東急電鉄に入社したのは、東京オリンピックが開催される64年春だが、人事部に配属されても仕事はなかった。