番長・三浦監督の正体《サラリーマン、公務員の鑑のような人格》…一般人とも積極的に交流、堅実かつ誠実
現役時代は球場に一番乗りし、音楽を聴きながらハマスタをランニングするのが日課だった。監督になった今もホームでは朝9時には球場入り。トレーニングなどをこなして実務に入る。
古株のOBが言う。
「98年日本一メンバーは佐々木、石井琢、谷繁らクセモノ揃いにあって、三浦は人柄の良さはさることながら、選手同士で徒党を組まないし、後輩に自分の考えを強要することもない。来るものは拒まず、去る者は追わずのスタイル。音楽、競馬、芸能、一般人とも積極的に交流する。堅実かつ誠実で、波風が立つような言動もない。マルハからTBS、DeNAと親会社が変わる中、横浜一筋でやっているのはこの三浦と同時期に活躍した川村丈夫くらい。自分の立場をわきまえ、誠実に仕事をこなすサラリーマン、公務員のような一面がある。2008年オフ、FA宣言しながら阪神に行かなかったのも、そういう人格が影響していると思う」
三浦監督は08年オフにFA権を行使、阪神への移籍は確実とみられた。
「当時の横浜は『万年最下位』の暗黒時代。三浦は勝ちに飢えてはいましたが、子供のころから面識があった岡田監督がその年のオフ、V逸した責任を取って退任したことに加え、熱狂的な関西マスコミと、阪神の高額過ぎる条件に気が引けた面もあった。FA宣言するや、関西マスコミが実家が経営する大阪の生花店に大挙。三浦自らマスコミに取材自粛を要請したほど。阪神の条件も破格だった。横浜は3年10億円程度で、阪神は3年13億円規模。1年目は年俸1億5000万円で据え置かれるが、2年目以降の年俸は5億7500万円になり、阪神の最高給取りで、当時の球界最高年俸をもらっていた金本知憲の5億5000万円を超えることになる。これに三浦は、『球界最高年俸なんてもらえない。まして、金本さんを超えるわけにはいかない』と考え、横浜残留を決めたといわれている」
フロント主導のDeNAの監督は人事権がない中間管理職。「上司」であるフロントと「部下」である選手のつなぎ役としての度量の大きさは、現役時代からの気質が支えている。 (つづく)