タッキーは「スピード出世」で一気にスターになっていった
まさに異例尽くし。本人の人気と実力より事務所の力の部分が大きかったのは容易に推測された。スピード出世で滝沢は一気にジャニーズを代表するスターになった。大河の勢いそのままに翌年、「和に特化した舞台をやりたい」とジャニー氏は舞台「滝沢演舞城」を開始した。
「ジャニーさんは米国のショービジネスに感化され根っからショービジネスが好き。ゆくゆくは本場米国に進出するには日本らしい色が必要。太鼓と紋付き袴の衣装を取り入れた。演出家・ジャニー喜多川の名前を入れたのも米国を意識した一面もあった」(舞台関係者)
5年後の演舞城では滝沢を演出家としてデビューさせる。この時点でジャニー氏の頭の中には後継者候補として滝沢の名前があったのだろうと思われる。ジャニー氏が60代半ばの頃、雑誌「AERA」のインタビューでこんな話をしている。
「ジャニーが死んじゃったら、あとはないんじゃないかって言う人がいるの。マネジャーなしでやれる人間ばっかりなんですよ。まだ、ボクがいるから遠慮しているとこあると思う。ボクがいなかったら、それこそ大活躍できるんじゃないかなあ。だから、僕は知らん顔して消えちゃったとしても、十分できます」