【追悼】八代亜紀さんの歌手人生は「しあわせ返し」…「いつもありがとう」が口癖だった
「まわりから幸せをいっぱいもらいながら生きてきたんですね」
半ば勘当で家を出て、ちいさなトランクひとつで目指した東京。お金もなく、別府港から瀬戸内海をフェリーで四国、本州へと渡る大変な行程だったが、16歳の八代さんはフェリーの舳先が海を割って走るはるか彼方を見つめていた。
新婚のいとこ夫婦の4畳半アパートに居候しながら、音楽学校へ通い、歌手を目指すも、発声の先生から見初められ、プロポーズされたり、デビュー詐欺のような話に巻き込まれたり。くじけてしまいそうな壁にあたるも、決めたら即行動が信条の八代さんはすぐに学校をやめて、新宿の「美人喫茶」の扉を叩く。昼夜フルタイムのドアガール兼歌手となって、ジャパンドリームをつかみとっていく。
時は高度成長期。街は華やぎ、人であふれ、「世界は二人のために」や「悲しみは駈け足でやってくる」などの流行歌が流れていた。そんな街で、八代さんがマイクを握れば店の入り口まで客であふれ、列をつくった。スタンダードジャズにポップス、カンツォーネまで歌いこなし、矢吹健の「うしろ姿」を歌うと、泣きだすホステスもいた。
♪あゝ別れ言葉は他人でも~
コブシの利いたサビを口ずさんでくれただけで、鳥肌が立ったものだ。
都合3店の専属歌手となった八代さんは早稲田の4畳半、巣鴨のマンションと住むところも変わり、スカGで送っていくと誘ってくる追っかけの男たちが相次いだ。「愛は死んでも」で歌手デビュー後もまた壁が立ち塞がったが、いつも最後にこう振り返った。
「本当にね、苦労したという思いがないの。レコードが売れず、地方のキャバレー回りをした頃なんて、忙しかろうが、突き飛ばされようがへいちゃら。スランプに陥ったこともあったけど、今思えば自分を成長させてくれた貴重な時間。どんなときも、ステージに立つと、待ってましたとあたたかい拍手で迎えてもらえ、私の歌に耳を傾けてもらえた。まわりから幸せをいっぱいもらいながら生きてきたんですね。60代になった今はもう最高! まだまだいくよ~」
計34回となった連載中も、そういえば「いつもありがとう」と繰り返していた。
「80歳になったとき、『舟唄』を知らない若者たちにステージで生で聴かせるから」と公言しているという八代さんに、つい「ヨボヨボになっても歌うなんてすごい」と言うと、こうだった。
「どうしてヨボヨボをつけるの? わたしはヨボヨボにはならないよ~」
あの笑顔、ガッツポーズを忘れない。
(長昭彦/日刊ゲンダイ編集委員)