元中日・川又米利氏が振り返る早実時代「直立不動で電車に」
僕は高2だった77年春から4季連続で甲子園に出場しました。同級生には荒木大輔の兄貴の健二がいて、1年下には現在監督をやっている和泉実がいた。今ほど騒がれたという印象はなかったですね。3年春に本塁打を打ちましたけど、3年夏は1回戦で倉吉北(鳥取)に2-3で負けた。僕は今の清宮君と同じ「3番・一塁」で出場。1死二、三塁の好機が2度も回ってきてともに内野フライ。僕が打てなくて負けてしまって、みんなに悪いことをしたなと……。
僕が早実にいた頃は、学校は早稲田、練習グラウンドは武蔵関にあった。授業が終わると、東西線の早稲田駅までダッシュし、高田馬場駅で西武線に乗り換える。16時の練習開始に間に合うには、15時20分発の準急に乗らないといけない。駅の階段がきつくて走るのも大変でした。車内では、1年生は吊り革につかまってはいけないという“不文律”がありました。武蔵関までの間、3列に並んで直立不動です。一般のお客さんには迷惑だったでしょうね(苦笑い)。武蔵関駅に着いたらグラウンドまでは通行人の安全に考慮して、隊列をなして早歩きで行く。練習時間は短く、冬場ともなると2時間ほどしかなかった。グラウンドに行くまでがウオーミングアップのような感じでした。