東洋大姫路の監督は「うちに来てくれれば甲子園に出られたのに」と
中学3年の私を熱心に誘ってくれた東洋大姫路を丁重に断り、淡口憲治さん(元巨人)が通った三田学園を志望した。
当時の日下隆監督に「三田学園に行きたいんですけど」と売り込むと、「いや、オレはちょうど今年で終わっちゃうんだよ(後に育英監督に就任)。滝川の吉本宗泰さん(監督)を紹介するよ」と言われた。
巨人などで活躍した別所毅彦さんや青田昇さんを輩出した名門の滝川は、野球が強いだけでなく、勉強もできるのが魅力で、進学を決めた。
中学までは主に投手だった私は肩が強かったため、入学してすぐの春からレフトで試合に出場した。夏に3年生が抜けると、捕手がいなくなった。私の同級生で名の通った捕手がいたが、いかんせん肩が強くない。吉本監督は何人か試したものの、誰も眼鏡にかなわず、「中尾、おまえは肩が強いんやから、捕手をやってくれんか?」と私に白羽の矢が立った。
これが捕手人生の始まりだった。高校時代、盗塁はほとんど刺したと思う。そして迎えた3年夏。3年前に自宅に来て誘ってくれた東洋大姫路と兵庫大会決勝で対戦することになった。1973年夏のことである。