東洋大姫路の監督は「うちに来てくれれば甲子園に出られたのに」と
滝川は初回に2点を先制したものの、すぐに追う展開となり、3番の私は勝負どころの七回と九回に2度敬遠され、結局3-4で敗退。私は3打数1安打だったが、不完全燃焼のラストゲームとなった。結局、一度も甲子園の土を踏むことはできず、一方の東洋大姫路は2年連続の出場となった。
試合後、東洋大姫路の監督が私の父に敬遠の件を謝罪。そして、こう言ったそうだ。
「あの時、中尾君がうちに来てくれれば、一緒に甲子園に出られたのにね」
■江川と一緒に慶大受験も…
その後、受験の準備をすることになり、夏の甲子園を騒がせた作新学院(栃木)の江川卓と再会することになる。同じ慶大進学を志望していたからだ。当時の慶大野球部は翌年の入部を希望する高校生を対象に勉強会を開いていた。
江川とは9月以降、他の5人の参加者とともに金曜の夜に上京し、2日間勉強して日曜夜に地元へ帰るという生活を何週か繰り返した。場所は東京の代々木八幡で、宿舎もあり、みんなで寝泊まりした。怖いイメージがあった江川だが、話してみると、ひょうきん者で話のうまい男だった。残念ながら、江川も私も慶大の入試に不合格。江川は法大へ。私は1浪後に専大へ進むことになる。
ちなみに、私を敬遠した東洋大姫路のエース・福井幸次は東洋大に進学。東都大学リーグで再会すると、私は本塁打をかっ飛ばし、あの夏の借りを返したのだった。