プリンスホテルから「補強選手」として熊谷組へ 銀座ありWボーナスありの助っ人扱いだった
私は「助っ人」扱いだけに、待遇は破格だった。熊谷組の関係者に「会社の宣伝になるから、うちのチームでも頑張ってくれ」と食事だけでなく、銀座の店にも連れて行ってもらい、背筋が伸びたものだ。時はバブル真っ盛りだった。
だからというわけではないが、私は熊谷組で打ちまくり、決勝まで進んだ。しかし、惜しくも準優勝。私は4本塁打で久慈賞を受賞した。
当時は「補強費」というものが存在した。準優勝したため、熊谷組からの分、プリンスホテルからの分、ダブルで臨時ボーナスが入った。社会人野球隆盛の時代だった。
■ヘルメット捕手の元祖「一休さん」
2年目の1980年にプリンスホテルとして都市対抗に初出場。その年の11月、中日からドラフト1位指名を受け、2年前の約束通りに入団した。
この頃の捕手は守備の際に帽子のツバを後ろにかぶるのが主流だった。私は打撃用ではないツバなしの丸形の専用ヘルメットをプロ野球で初めて導入。童顔だったこともあり、丸刈り頭のようなヘルメットと合わせて「一休さん」と呼ばれた。私は専大の1年時から愛用していた。