萩本欽一「運の神様はいる」幸運は不運な時にこそ芽生える
「宗教のことはよくわからないけど、運の神様はぜったいにいると思います。だって、ぼくのお笑い人生のほとんどは運で判断してきたんですから」
こう語るのは、1970年代後半から80年代に3つの冠番組を大ヒットさせ、“視聴率100%”の異名を取った萩本欽一(79)。「人生、最後はチャラ」「つらければつらい分、後に楽しいことが待っている」と語る欽ちゃんの言葉は胸を打つ。
「今は多くの人たちがとても苦労していますね。人生の岐路に立たされて大きな選択をしなければならない人、『会社が大変なことになってしまった』『明日からどうしよう』と不安に思う人もいるでしょう。でも、大丈夫。幸運は不運な時に芽生えるもの。今がつらければつらいほど、遠くにある大きな夢を見て辛抱すればするほど、必ずいいことがあります。運に任せて生きてきたぼくが言うんだから間違いありません」
■コロナ真っただ中の8月、糟糠の妻に先立たれた
そんな欽ちゃんは、新型コロナウイルスが蔓延し始めた頃、カンペやメモを活用した“しゃべらない生活”に挑戦してみたという。
「コロナが怖かったというより、『人は言葉を失うとどうなるんだろう』という興味からですね。事務所のスタッフに『ここにお茶を置いてください』とメモを貼ったり、カンペを出して意思を伝えると、最初のうちは相手も自分も『ぷっ』と笑えたけど、3日も同じことをやってると、それが『日常』になり、急につまらなくなっちゃった。というより沈黙の中でメモだけが飛び交うのを見てたら、悲しくなってきちゃってね。その後、コロナで亡くなる人が増え、東京都に頼まれて『ステイホーム』を呼び掛けることになったこともあり、なるべく家にいるようにしていました。ずっとたばこを吸ってきたし、年齢も年齢ですからね」
コロナ禍真っただ中の20年8月、糟糠の妻に先立たれた。欽ちゃんより3つ年上の澄子さんだ。浅草の下積み時代に知り合い、紆余曲折を経て晴れて1975年に結婚し、息子3人を授かった。
「スミちゃんは4年前にがんが見つかってから闘病を続けてきました。ぼくはずっとガムシャラに働いていましたから、罪滅ぼしじゃないけど、自粛期間中はなるべく一緒にいるようにしました。でも8月の終わりに亡くなってしまいましてね。葬儀に参列したのは息子たち夫婦と孫、スミちゃんの看病をずっとしてくれていた義妹、それとぼくの10人くらい。コロナの影響もあったけど静かな普通のお葬式は彼女が望んでいたものでした」
少し寂しそうな表情を浮かべつつ、澄子さんとの思い出を語る欽ちゃんの話は、同3月にコロナで亡くなった志村けんさん(享年70)にも及んだ。
「志村さんとはプライベートでは交流がありませんでした。でも、加トちゃん(加藤茶)の後ろで少し照れくさそうにニコニコ笑っていた印象が残っています。コロナでタレントまで『大声でしゃべるな!』と言われる今だからこそ、動きを中心にして人を楽しませる彼のようなお笑いが求められているように思いますね。けんちゃんのことは尊敬する同級生のように感じていたし、これからという時に亡くなってしまったのはとても残念です」