飯野矢住代誕生秘話<5>ミス・ユニバース予選落ち「今後は銀座のクラブでホステスとして働きます」と
「二号の娘発言」が物議を醸したことで、マイアミビーチで開催されるミス・ユニバース世界大会への渡航費が集まらず、それどころか実行委員会から「出場辞退」を暗に示唆され、揚げ句に右翼から脅迫まで受け、一時は世界大会への出場を諦めかけた飯野矢住代だったが、銀座「姫」のマダム、山口洋子の援助もあり、どうにかマイアミビーチへと飛び立った。ただし、母親も同伴させていたというから、矢住代本人が泣訴するほど費用が集まらなかったわけではないのかもしれない。事実「これで親孝行ができた」と、ケロリとしている。
いざ出場した世界大会だったが、世界の壁は厚く、児島明子以来の日本人世界王者の栄冠が矢住代の頭上に輝くことはなかった。ちなみにこの年(1968年)のミス・ユニバース世界王者はブラジル代表のマーサ・バスコンセロスである。世界大会の審査員の一人で「JNNニュースコープ」(TBSテレビ系)でキャスターを務めていた田英夫(のちに参院議員)は、矢住代を取り巻く審査状況について、次のように明かしている。
「予選でおちたのはからだの差でしかたのないことです。だが人間的には評判がよかった。アメリカの審査員のミセス・アブトンやイスラエルの審査員はさかんにほめていました。ほかの人が代表になったとしても、飯野さんよりよかったか、というと、それはギモンです」(「週刊文春」1968年12月23日号)