東京・新大久保「イスラム横丁」のネパール料理店でよみがえった、ざらり。
そんな否定的な対応のすべてが不愉快だったし、邦楽業界に大きな失望も感じた。怒りにまかせて「臆病者たちは死ぬまで仲良しクラブでじゃれ合ってればいいんじゃないですか」と悪態をついたこともある。邦楽ジャーナリズムの空気を掴めなかったことは、その後ぼくが軸足を川上に……音楽制作に移す一因ともなった。
■辛口ライターに面会を申し込む
30代になり、プロデューサーとしていくつかのミリオンヒットに関わる幸運に恵まれた。気づけば作品を評される側に立っていた。売り上げが増すほど賛辞も増えていく。たまに辛口の評を見かけると、自分と直に会ったことのないライターばかり。そのときぼくが取った行動は、そんな書き手にこちらから面会を申し込むということだった。一度会ってにこやかに接すればあら不思議、途端にライターの筆は甘くなる。本当は不思議でも何でもない。ぼくは酷評を封じたくてわざわざ「面識」を作ることに余念がなかったのだ。断じて言うが、圧力というほどのものではない。そんな力はぼくにはない。それなのに、彼らが口をつぐむたび、ぼくにはざらりとした感触が残った。
日本語を解さぬ外国人客で溢れかえるイスラム横丁のネパール料理店で、仕事仲間があけすけに語る芸能事務所の闇を聞くぼくには、懐かしい感触がよみがえっていたのだった。ざらり。