元シブがき隊・本木雅弘はなぜ潰されなかった? 奥山和由氏が明かしたメリー氏の「圧力」
シブがき隊で本木だけが圧力を受ける事になった真相
「薬丸は最初ジャニーズに残りましたが、1年も経たないうちに移籍しました。布川は解隊後、すぐに別の事務所に行っています。当時は解散したグループのメンバーはほとんど事務所に残っていないですし、アイドルというカテゴリーから外れるので、ジャニーズの競合相手になるわけではない。穏便に移籍すれば、圧力を掛けられるわけではなかったようです。
しかし、薬丸と布川はメリー氏の勧めるプロダクションに入ったそうですが、本木はメリー氏の意向を汲まずに自分の行きたい事務所を選んだみたいです。そのため、メリー氏の逆鱗に触れ、圧力が及んだと聞いています。ただ、本木がジャニーズと共演できなくなったのは1990年代半ば以降です。それまでは絡みがありました」(ベテラン芸能記者)
一体、何があったのか。報告書と奥山氏の投稿を比べると、メリー氏の振る舞いに差が感じられる。報告書で認められた《メリー喜多川は、森がオートレーサーの試験に合格した事実を前向きに報じようとした民放のプロデューサーに、『SMAPには森なんていなかったでしょ?』『最初からいないの。森はSMAPのメンバーじゃない。』などと大声を出した》という『週刊文春』の記事内容からは威圧的な様子が伝わってくる。
一方、奥山和由氏の投稿では《ダメとは言わない、もう一度よく考えて》と言葉だけを読めば、怒鳴り散らしたようではなさそうだ。なぜ、森且行(49)がSMAPを脱退した1996年と本木がジャニーズを辞めた1988年では態度が違うのか。
「1980年代から、メリー氏は他の事務所から男性アイドルが出ればメディアに圧力をかけてきたと言われています。ただ、テレビでいえば歌番組にしか効力は及ばなかった。なぜなら、バラエティーやドラマでは『そのタレントを使うならウチは全員出ない』と言えるほどのパワーのあるタレントが揃っていたわけではないからです。それは映画界でも同じです」(業界関係者)
■ジャニー氏のお別れの会も参加しなかった本木の心情
本木は独立したタイミングが良かったようだ。
「光GENJIが87年にデビューして国民的アイドルになりましたが、3年くらいで人気は落ち着いた。91年デビューのSMAPも最初はそんなに売れていませんでした。だから、90年代前半はメリー氏の圧力が広範囲に及ぶことはなかった。本木が役者として大成できたのは、本人の能力の高さが最大の原因ですが、活躍の場が遮断されなかったことも大きい」(前出の業界関係者)
本木は役者としてだけでなく、92年には井上陽水作詞作曲の『東へ西へ』でNHK紅白歌合戦に出場。93年4月から1年間、NHKの歌番組『ポップジャム』の司会を務めていた。
「『ポップジャム』には光GENJIやSMAPが出たこともあります。ジャニーズ事務所が力のない時期でしたから、『本木が司会なら出ない』とはメリー氏も言えなかったのでしょう。NHKの歌番組に出演できないことは事務所にとって損失ですから」(前出の業界関係者)
事態は段々と変化していった。93年に木村拓哉(50)がドラマ『あすなろ白書』で高視聴率に貢献。94年にSMAPが『Hey Hey おおきに毎度あり』『がんばりましょう』などのヒット曲を生み、中居正広(51)や香取慎吾(46)がバラエティー界に進出した。この辺りから歌番組だけでなく、テレビの全てのジャンルにジャニーズのタレントが出演するようになり、視聴率を稼いでいった。そして、報告書にある《メリー喜多川は、ドラマの共演者が気に入らないと、その放送局の社長に直接電話をかけ、外すよう要求することもあった》という行為が生まれたようだ。
「SMAPが国民的な人気グループになってから、メリー氏の振る舞いがさらに横暴になった。業界では周知の事実でした。だから、近年は圧力ではなく、忖度という言葉が使われてきた。何にもないのに忖度なんてしません。過去に圧力があったから、自然と忖度するようになった。メリー氏の思い通りの展開でしょうね。奥山氏のように圧力に屈しないプロデューサーがいれば、また状況は違ったと思いますが」(週刊誌記者)
本木はジャニーズ事務所の圧力が及ばない時期に役者としての地位を築き、その後も活躍した。2019年、東京ドームでジャニー氏のお別れの会が開催されたが、本木は出席していない。
「メリー氏に会いたくなかったからでしょう。散々、自分の活動を妨害してきたであろう人に挨拶したくなかったのだと思いますよ。当然の心理ですよ」(前出の週刊誌記者)
二度とジャニー氏のような性加害問題を起こしてはならない。被害拡大の原因とされたメリー氏の振る舞いに屈してきたメディアも反省しなければならない。事態を把握するためにも今後、奥山氏のような業界関係者の告白が望まれる。