妻の実家の居間の壁に飾られた見慣れない刺繍絵をめぐるエピソード
「お母さん、ご無沙汰している間にこんなに腕を上げられて」しばらく会わぬうちに背中がいくぶん丸くなった義母は、はじめ怪訝そうな表情だったが、ぼくの言う意味がわかるや人懐こい笑顔を浮かべた。彼女が語るこの刺繍絵が居間に飾られるまでの経緯は、次のようなものである。
義母には長い付きあいのある時計屋の夫婦がいる。もう80代かな、と彼女は言う。今日びの地方都市で時計屋といえば、デパートやモールに入る店を除けば、マニアや富裕層向けに高級腕時計やビンテージウォッチの品ぞろえを充実させた店か、修理や電池交換の小さな利ざやで細々と経営を続ける昔ながらの個人商店に大別できるだろう。義母のいう時計屋は後者である。
付きあいは40年ほどになるが、大きな買い物は一度もしたことがないし、私的な時間を共にしたこともない。腕時計の電池が切れたり、眼鏡のフレームに不調があったりした時に、予約もなしに店を訪ねては対応を施してもらうだけの関係。それでも同じ街に住んでいるから、夫婦の仲が円満なこと、3人の子が成人して巣立ったこと、そして妻がかつて大病を患ったことを知っている。病歴については街の誰もが知るわけではない。なぜ義母が知っているかというと、彼女もまた同じ病気と闘った過去をもつからだ。