妻の実家の居間の壁に飾られた見慣れない刺繍絵をめぐるエピソード
義母が久しぶりに時計屋に足を運んだのは昨春のこと。銀婚式の記念に夫婦で買った腕時計の、もう何度目かのベルト交換。これから季節もよくなるし、コロナの猛威も収まってきているようだから、外出する機会も増えるかも。そう思った彼女は、ベルトの傷みが目立ってきた自分の腕時計を預け、翌週引き取る約束をして店を出た。
その週末、時計屋の妻から電話がかかってきた。彼女は預かっていた腕時計を紛失したことを告白し、「思い出のお品をなくすなんて」と涙声で詫びた。どんな言葉がその場にふさわしいのか、すぐには分からなかった義母は「気にせんでください」と言うのがやっとだったという。
「お母さん、それは人が良すぎでしょう」一年近くも前の出来事をいま知ったばかりのぼくが、思わず言葉を荒げる。「だって相手は身内や友だちじゃない。お店なら保険にだって入ってるはずです」だが義母は「保険に入る余裕はないと思うよ、あの店は」と笑うばかり。まったく埒が明かない。怒りの矛先は顔も知らぬ時計屋夫婦から、目の前で笑みを浮かべる義母その人へと向かおうとしている。