中原中也、小林秀雄、長谷川泰子の三角関係…彼らはなぜ愛し、そして憎んだのか?
本質を捉えた「私たちの不幸を終わらせましょう」という表現
中也は1907年、山口県生まれ。本作の冒頭では17歳だから、物語の始まりは1924年ということになる。大正13年。奔放な三角関係は彼らが文壇と芸能という特殊な世界にいただけでなく、大正デモクラシーの風潮によるのかもしれない。
37年10月、神経衰弱を患った中也は結核性脳膜炎によって30年の命を閉じた。残された甘いマスクの写真もあって、現在も日本詩壇の巨星として幅広いファンを有している。そうした支持者はぜひとも本作で彼の駄々っ子のような姿を目撃して欲しい。特に最晩年の中也の行状はショッキングだ。
本作には登場しないが、泰子は演出家の山川幸世と交際を始め、30年12月に山川の子供を出産。当時23歳の中也は「茂樹」と命名して名付け親になっている。中也は茂樹をわが子のようにかわいがったというから、もはや腐れ縁というしかない。
中也は「時こそ今は……」という詩編の中でこう呼びかけている。
「いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。」
だが中也と泰子の静かな時間は短く駆け去り、いたいけな情けはかき消えた。本作で泰子は中也に向かって「私たちの不幸を終わらせましょう」という言葉を2度語っている。実際に泰子がこの言葉を口にしたのかは知らないが、ドラマの本質を捉えた表現だ。胸に残る。
天才とは何か――。
本作のメガホンを取った根岸吉太郎監督は「天才とは狂気だよ」と苦笑いしているのかもしれない。
(文=森田健司)