釜本邦茂氏「C大阪社長に34年前のリベンジをお願いした」
元日の天皇杯決勝のカードがC大阪と横浜Mに決まった瞬間、34年前の国立競技場の光景が鮮やかに蘇った。1984年1月1日。C大阪の前身であるヤンマーと横浜Mの母体となった日産自動車が天皇杯の決勝を戦った。ヤンマーひと筋でプレーした自分にとって、この試合が現役最後の公式戦だったからである。
82年5月に右アキレス腱を断裂。83年11月に復帰したが、39歳(年齢はすべて当時)ということもあって、天皇杯の準決勝を勝ち上がったときには「元日で現役を引退する」と決心していた。
9年ぶり4度目の優勝を狙うヤンマー。天皇杯初制覇に燃える日産は22歳FW柱谷幸一、23歳FW水沼貴史、25歳のMF木村和司とFW金田喜稔を擁し、非常に勢いのあるチームだった。
劣勢が予想されたヤンマーは、前半を0―0で折り返して後半から釜本を投入! というゲームプランだったが、後半9分に交代出場した後に2点を奪われ、現役最後の公式戦は「敗戦」に終わった。もちろん勝利のために最善を尽くし、勝って終わりたかった。しかし「心残りのままスパイクを脱ぐ」のも「また人生」「敗戦をこれからの人生の糧にしよう」と誓ったことを思い出す。