“最強チーム”で挑んだアトランタ五輪 西野監督と山本コーチのコンビも最強だった
サッカー日本五輪代表物語 #4
8年前のロサンゼルスに続き、アメリカ大陸での開催となった1996年のアトランタ五輪。
日本は最強チームでアジア予選に挑んだ。なぜ<最強チーム>と言われたか。日本はプロ選手で挑んだからである。
1993年にサッカーファンの悲願でもあったプロリーグ・Jリーグがスタートした。選手はもちろんのこと日本人監督もプロになった。
1992年に初めて日本代表の外国人監督になったオランダ人のハンス・オフト(1947年6月生まれ。オランダ出身。1980年代にJSL2部のヤマハ=現磐田、マツダ=現広島)のコーチ。日本代表後は磐田、京都、浦和の監督を歴任)は、W杯出場あと一歩のところまでチームを導いた。
しかし、1993年10月に「ドーハの悲劇」によって夢は断たれた。
オフトの後を継いだブラジルン人のロベルト・ファルカン(1953年10月生まれ。ブラジル出身。1982、1986年W杯に出場。1990年にブラジル代表監督に就任)は、わずか1年の短命に終わったが、日本代表を取り巻く環境にある変化があった。川淵三郎(現JFA相談役。東京五輪選手村・村長)がJFAの強化委員長を退任。後進を早稲田大の後輩でもある加藤久(1956年4月生まれ。宮城県出身。仙台二高から早稲田大。在学中に日本代表選出。読売クラブ、V川崎、清水でプレー。V川崎、湘南で監督を歴任した。現J京都・強化育成本部長)に譲った。