シドニー五輪代表もワールドユース代表もトルシエが指揮を執ることになった
サッカー日本五輪代表物語 #7
1996年のアトランタ五輪で28年ぶりに<五輪予選敗退>の呪縛から解き放たれた日本にとって五輪は、2000年のシドニー五輪から「出るのが当たり前」の大会となった。
例えば中田英寿ーー。
アトランタ五輪を経験した後、1997年5月21日にA代表にデビューするとチームの主軸となり、同年11月のフランスW杯予選のプレーオフ・イラン戦では、日本をW杯に導くシュートを放った。
1998年6月にフランスW杯本大会に出場。1999年9月13日には、セリエAのデビュー戦となったユベントス戦でいきなり2ゴールを決めた。
中田英は2000年1月16日にプロビンチアのペルージャから、名門ローマにステップアップした。たった4年の間に大きな変化が、中田英と日本サッカー界に起きていた。
シドニー五輪の主力メンバーたちは、1997年ワールドユース(現U-20W杯)でベスト8入りした世代と1999年のワールドユースで準優勝した世代の融合したチームと言えば分かりやすいだろう。メンバーを紹介する前に当時のチームが置かれていた状況を先に説明しておきたい。