江藤慎一の流浪のプロ人生 監督が6畳一間のアパートに「野球さえできれば何でもええんじゃ」
江藤慎一(元中日野手)
1959年に中日に入団して64年、65年と2年連続で首位打者を獲得。ロッテに移籍後の71年にも首位打者となり、史上初の両リーグ首位打者となったのが江藤慎一だ。
64年、王貞治が本塁打、打点の2部門で独走、打率も9月に入ってからトップに立ったため、戦後初の三冠王の期待が高まった。しかし、それに待ったをかけようとしたのか、江藤は内野ゴロでも一塁にヘッドスライディングをするなどファイトあふれるプレーを随所に見せ、ファンを大いに沸かせた。
そんな江藤は69年、監督に就任した水原茂の選手に対する理不尽な厳しさにナインを代表して抗議したことから指揮官の逆鱗に触れ、シーズン終了後にトレードを通告された。ファンはこれに猛反発、撤回を求める署名運動が起こったその一方で、江藤自身は水原の自宅を訪ねて土下座してまで残留を直訴したが、頑固な水原は聞く耳を持たずに門前払い。江藤のロッテ移籍が決定し、ここから江藤の流浪のプロ人生が始まることになる。
72年、わずか2年の在籍で江藤は大洋に移籍する。新監督に就任した大沢啓二が打撃よりも守備・走塁を重視した結果のトレードだった。しかし、大洋でも長くは続かない。性格的に上におもねることのできない江藤は75年、新監督の秋山登に疎まれ、今度は太平洋へ監督兼任選手として移ることに。当時、太平洋は福岡を本拠地としており、江藤が同じ九州の熊本出身であること、オーナーの中村長芳が「かつての西鉄のような野武士野球を目指す」との意向を持っていたことによる江藤の獲得だった。