PL学園から青学大へのスポ薦「まさかの不合格」の裏に井口資仁の存在…入学できると信じていたが

アトランタ五輪決勝は最強キューバの牙城を崩せず銀メダル。ただ、予選リーグ1勝3敗から4連勝して決勝へ。僕は控えから4試合目にスタメンに抜擢されると、最終的に4割以上の成績が残せた。完全燃焼した2位だった。
アトランタメンバーは投手4人、野手6人が後にプロ入り。井口資仁(青学大からダイエー)、福留孝介(日本生命から中日)はメジャーリーグも経験して名球会に入った。
松中信彦さん(新日鉄君津からダイエー)は平成唯一の三冠王。僕は2005年に阪神の球団記録となる147打点でチームをリーグ優勝に導いた。オールアマ最後のチームは「五輪史上最強メンバーだった」と言っても許されるだろうか。
ドラフト会議では毎年100人前後の選手がプロ入りする。一方で五輪は4年に1度の大会で20人ほどしか選ばれない。さらにメダルを取る確率となると、プロ野球選手になる確率より、かなり低いだろう。五輪の舞台では、この幸運をくれた全ての人に感謝しながらプレーした。
以前触れたが、五輪メンバー選考の際、僕を推薦してくれたのは東洋大の高橋昭雄監督だった。そもそも僕が東洋大に進学したのも、不思議な縁からである。
PL学園3年春の時点で、志望した大学は青学大。東都大学リーグに所属していて、小久保裕紀さん(現ソフトバンク監督)を筆頭に好選手がズラリと並ぶ強豪だった。
先輩が毎年のようにスポーツ推薦で入学していて、PL学園とはパイプがあった。学校から「おまえは青山学院を受けろ」と言われ、入学できるものだと信じていた。
実際に高校生を対象とした練習会を受けた。参加していた高校生の中で「レギュラー組のノックに入れ」と言われたのは、僕と国学院久我山の井口の2人。ポジションは僕がセカンドで井口がショート。これからプロで指導者になるまで長い付き合いになるのだが、井口の「走攻守」全てのプレーに度肝を抜かれた。初めて意識したのがこの時で、以来、僕の中にはずっと
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