「狂うひと『死の棘』の妻・島尾ミホ」梯久美子著
特攻隊長として島にやってきた男と、由緒ある家柄に生まれた島の娘が、極限状態の中で恋に落ちる。しかし特攻命令はついに下されないまま、敗戦。命を永らえた2人は結婚する。非日常の恋は終わり、結婚生活の日常が続くうち、夫の情事が発覚、狂った妻は昼夜なく夫を責めたてる。
島尾敏雄の私小説「死の棘」は、ベストセラーとなり、「比類ない愛の神話」との評価を受け、映画化もされた。
昭和61年、夫・敏雄が死去、その20年後に87歳でミホが没した後、夫婦それぞれの日記、手紙、メモ、草稿など、膨大な資料が残された。ミホの生前、彼女の評伝を書こうと何度かインタビューを試みていた著者は、膨大な未公開資料を精査する機会を得る。そして、感情の起伏まで読み取れる生々しい一次資料の山に分け入り、600ページを超える渾身の評伝を書き上げた。それは「死の棘」の従来の評価をくつがえす深い考察に満ちている。
開かれた夫の日記には、瞬時に妻を狂った獣に変える17文字が記されていた。なぜ、夫は日記を開いたまま外出したのか。文学的野心のために妻の狂乱を引き起こすことなどあり得るのか。
妻の憎悪の対象である夫の愛人は、「死の棘」の中で「あいつ」としか呼ばれず影が薄い。著者は実在の「あいつ」が誰であるかを探し出し、複数の関係者への取材を通じて、一方的に「書かれる人」に甘んじていたこの女性に血を通わせる。
「死の棘」は夫の視点で書かれている。「『死の棘』の妻の場合」を書こうとして果たせなかったミホは、この評伝をどう読むだろうか。(新潮社 3000円+税)