連載<3> 由貴子との付き合いはこの春から
土曜日、一週間ぶりに西條由貴子が三軒茶屋の翔馬のアパートにやってきた。
「監督にいくら質問しても『スライダーではありません、うちのエースが投げているのはフォークです』って言い張るのよ。でも、私、四番の選手から『うちのエースの縦スラはそう簡単には打てませんよ』と聞いたの。だから絶対にあれはスライダーなんだって」
小柄で細い体に、タオルケットだけを掛けたうつ伏せの姿勢で、彼女は喋りっぱなしだった。
翔馬が入った日日スポーツのライバル紙となる東都スポーツに入社した由貴子は、希望通りに記者になり、アマチュア野球を担当している。この日は秋の神奈川大会を制し、関東大会で来春のセンバツをかけて戦う横浜の学校を取材してきたらしい。
監督に嘘をつかれた――そう文句を言っているようだが、翔馬には監督が隠そうとしていることを暴いたのだと、得意になっているように感じた。
「ねえ、翔くんはどう思う? だいたいフォークだろうが縦スラだろうが、記者を騙してなんの意味があるのかな」
同じ東亜大学野球部のマネージャーだった由貴子が、サブキャプテンでありながら控え三塁手だった翔馬を、「笠間くん」から「翔くん」と呼び方を変えたのは、この春、二人が付き合うようになってからだ。
東都スポーツに入社した彼女から、「笠間くん、同業者になったんでよろしくね」と連絡をもらい、何度か会っているうちに、自然と関係ができた。
マネージャーの頃から由貴子が自分に好意を抱いていたのは知っていた。翔馬も彼女が好きだった。だが学生の頃は、リーグ優勝の常連である強豪大学でレギュラーを獲るのに必死で、彼女を作る余裕などなかった。
いや本音を言うなら、由貴子の思いに気づかない振りをしていたのは、野球に打ち込みたいだけが理由ではない。
「ねえ、翔くん、聞いてる」
膝立ちした由貴子が翔馬に寄り、真上から覗くようにして頬をつねってきた。辛い練習の時に何度も励まされた笑顔も、今は少々うざったい。
「聞いてるよ」
「じゃあ、翔くんはどうして監督はフォークって言い張ると思うの」
「縦スラとフォークは球筋は似てるけど、バッターからすればまるで対応が違うからな」
「どう違うの?」
二つとも縦に落ちる軌道は似ているが、投手が投げようとしてから手元で落ちるまでのタイミングが微妙に異なる。
これが翔馬の天敵、一学年下で東亜大で一年から四番を打っている安孫子雄輔なら、縦スラだろうが、フォークだろうが関係なく打ち返すだろう。天性のセンスにパワーもあるので、少しタイミングがずれているのに強引にスタンドに放り込んだのを何度も見た。
だが翔馬レベルの打者では配球を読み、指が離れる瞬間から球が手元に来るまでのタイミングを計って打ちに行くため、指の動きが微妙に異なるだけでもバットの芯を外してしまう。
フォークはストレートと同じように腕を真っすぐ押し出して投げる球種だが、スライダーは指を捻る分、腕を振ってからボールが出てくるまでの時間が、フォークより若干遅くなる。
いくら目を凝らしたところで、投手の握りは見えないし、押し出しているか、捻っているかも打者には見えない。だからその球をフォークだと思い込んでいれば、実際に球が来るより早くバットが出てしまうのだ。
(つづく)