「ポテトチップスと日本人」稲田豊史氏
「ポテトチップスと日本人」稲田豊史著
老若男女を問わず、日本人の多くに愛されるポテトチップス。その原点は、60年前に発売されたポテトチップス「のり塩」味だった。
「日本のポテトチップスはアメリカのポテトチップスをそのまま輸入したと思われがちですが違います。戦後、おつまみや菓子を作る零細業者が試行錯誤の末、完成させたものであり、日本独自のものなんです」
本書は戦後の日本にポテトチップスを誕生させた男たちの奮闘と、駐留米軍と一部の富裕層のおつまみだったものが、大衆化し庶民のお菓子となっていく過程をたどる、戦後の食文化史である。
日本のポテトチップスは、戦後、駐留していた米軍のアメリカ人たちが自国で食べていたポテトチップスを欲したことが始まり。ハワイから帰国した濱田音四郎が、1950年にアメリカン・ポテトチップス社を立ち上げ、フラ印の「塩味」のポテトチップスを販売する。そして米軍が引き揚げると、音四郎は日本人をターゲットにした新たな市場開拓に乗り出す。
「当時、日本人はポテトチップスなんて食べたことがない上に、戦争中の苦い思い出からジャガイモは嫌われていました。あるとき、音四郎は銀座のビアホールにPX(駐留米軍内の売店)に勤めるアメリカ人を伴って出かけたそうです。そして彼に『この店にポテトチップスは置いてないのか』と言わせたというのです。なかなかのやり手ですね」
50年代、ポテトチップスはホテルや高級バーで提供される「高級おつまみ」。口にすることができるのは一部の富裕層のみで、庶民にはさほど知られていなかったようだ。そんなとき、酒のつまみを製造する「湖池屋」を設立して間もなかった小池和夫が、飲み屋で1皿1000円だったポテトチップスを口にして、そのおいしさに感動したという。
「酒のつまみではなく、お菓子として大量に作って安くしたら売れるだろうと考えたようですが、周りに誰もポテトチップスの製法を知っている者がいなかった。さんざん試行錯誤しながら、味も日本人受けしやすい『のり塩』を生み出し、やっと62年に最初のポテトチップスの販売にこぎつけました」
この十数年後、ポテトチップスの市場は、後発のカルビーの大量生産によって都市部から地方へ一気に拡大し、全国区のお菓子となった。
現在、ポテトチップスは「日本人にとってなくてはならない菓子」になりつつある。
「北海道に到来した台風のせいでジャガイモが不作に見舞われ、2017年には、スーパーやコンビニの棚からポテトチップスが消え、ポテチショックと騒がれたことは記憶に新しいですね。また、煎餅好きと思われがちなシニア世代にもポテトチップスは非常に人気があります。この世代は、湖池屋が『のり塩』味を発売した1962年からカルビーが『うすしお』味を世に出した75年ごろまでの普及時期に、おやつにポテトチップスを食べて育った世代なんです」
70年代、本物の西洋料理への憧れが育てた「コンソメパンチ」、80年代、映画「E.T.」で見たアメリカ文化に触発され、やがて「ピザポテト」味が誕生。ポテチのフレーバーは時代を映す鏡でもある。
「実は日本のフレーバー数や新商品の発売数は世界一なんですよ。ポテトチップスが日本で認知されてきた歴史と、そこに立ち会った人たちのことを記録に残せた、と自負しています」
随所に著者のポテトチップスへの愛があふれている一冊だ。
(朝日新聞出版 1045円)
▽稲田豊史(いなだ・とよし) 1974年、愛知県生まれ。ライター、コラムニスト、編集者。著書に「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ──コンテンツ消費の現在形」「ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代」「こわされた夫婦 ルポ ぼくたちの離婚」など。