映画「ホイットニー・ヒューストン」字幕監修から見えたオモテとウラの魅力
2012年に48歳の若さで非業の死を遂げた天才女性歌手の人生を巧みに描いて話題の映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』が、クリスマス・ウィークエンドの今週末に世界一斉公開される。全編で使用される歌声はすべてホイットニー本人と聞けば、『ボヘミアン・ラプソディ』を想起する方もいるのでは。じつは脚本のアンソニー・マクカーテンはまさに“ボヘラプ”を書いた人物なのだ。
ぼくはこの映画の字幕監修を務めた。主人公ホイットニーをはじめとする登場人物たちと直接会って仕事をした経験を見込まれてのご依頼。今回はかぎられた字数のなかで、作品のオモテとウラの魅力を語りたい。
63年生まれのホイットニーが世に出たのは85年のこと。大スター、ディオンヌ・ワーウィックの従妹である彼女のデビューは、業界の大立者クライヴ・デイヴィスの肝入りだった。デイヴィスが経営するアリスタレコードには、ディオンヌに加えて女王アレサ・フランクリンも所属していたし、ホイットニーの母親はアレサのコーラス隊の中心メンバーという太い縁もあった。とはいえヒューストン家は裕福でもなく、両親の不和に起因する「ふしあわせな家」の記憶は生涯にわたりホイットニーを苦しめるのだが。
デビューから破竹の勢いで駆け抜け、永遠に破られることがないと思われていたビートルズの6曲連続全米首位の記録もあっさりと塗り替えたホイットニー。その歌声には、たんに「歌がうまい」を超えて「きっと歌のうまさってこういうことだよね」と新基準を更新していくような凄みがあった。有史以来、黒人女性がひとりとして経験したことのなかった、人種や民族を越境するほどの巨大な成功を彼女は掴んだのである。
92年の暮れ(あれから何と30年!)には、初主演映画『ボディガード』が公開され、主題歌とあわせて世界的な成功を収めたことも忘れがたい。同年には彼女と伍するほどの大スターだったボビー・ブラウンと結婚、翌93年には女児を出産して母親になった。
天才ホイットニーの前ではこの世に不可能はない、と思えるほど。長嶋有の名作を引用して「猛スピードで母は」と表現したくなる完璧なキャリア構築には、策士クライヴ・デイヴィスの確かな采配の存在を痛感したものだし、どこか生き急ぐ印象さえ感じられた。