不毛な世代間闘争、「世代」という名のカメラでは解像度が低すぎる
ぼくは同書を幾度となく首肯しながら読んだ。かつて世代論が大きな効力を持ち得たことは認めるが、いま現実を映し出すには「世代」という名のカメラでは解像度が低すぎると感じていたからだ。低スペックのカメラを使い続けるデメリットは、撮るときよりも映し出すときに生じやすい。つまり傍観者から当事者に立場を移したとき、ハレーションが起こる危険性は高まる。世代だけじゃない。性別だって、国籍や出身地だってそうだ。無論そんな属性も人となりを知るきっかけにはなるけれど、それ以上に重要なのは、どういう価値観で生きているかだろう。
著作物だけでなく、個人的なやりとりのなかでも竹田さんは示唆に富んだ日本語表現を与えてくれる。最もつよく記憶に残っているのは「さまざまな属性のマイノリティ」というフレーズ。音楽エージェントとしてどんな人たちに音楽を届けたいかという話題のなかで出てきた。
日本にいればマジョリティであるぼくも、アメリカにいけば「アジア系」という括りのいちマイノリティになる。女子校ではマジョリティである女子だって、自衛隊に入ればマイノリティ。そこに悪意が付け入るとき、あってはならない差別や事件が生まれてしまう。マジョリティとマイノリティは、ある瞬間に急反転するラベルのようなもの。そう、世界中の人間は誰ひとり残らず「さまざまな属性のマイノリティ」なのだ。そんな気づきを与えてくれるZ世代アジア系アメリカ人・竹田ダニエルの言葉に耳を傾けたい。