11年間の闘病の末に亡くなった京塚昌子
84年から85年にかけては後遺症に耐えながら一時的に復帰。しかし、やはり症状が悪化し、86年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院した。その後は静岡、長野と各地の病院を転々として療養生活を送り、事実上、芸能界引退状態となった。
2回目の入院当初は再度の復帰を目指し、リハビリに励んでいたが、徐々に体力が衰え、晩年は意識にも影響が出て、来客に反応をしないこともあったという。
生涯独身と伝えられていたが、死後、30代の64年ころから3年間内縁関係の「夫」がいたことが芸能マスコミによって報じられた。相手は新橋の美貌で有名だったゲイボーイ。遊びではなく熱愛だったという。すれ違いから3年後に別れることになったが、「夫」とは別れた後も酒をよく酌み交わす仲だった。
20代後半のころ、京塚はやせるためのホルモン治療を受け、その副作用で月経が止まり、その後ずっと更年期状態だったという。性別にはこだわらない「人間」同士の心のつながりがそこにはあったのかもしれない。