杉田玄白が嘆いた梅毒流行 貧困と感染症に無知な遊女の末路
いずれにせよ、遊郭で働く女性たちは短命でした。10年程度働くと借金が帳消しになると言われたそうですが、そこまで生きる女性は少なかったようです。
それも無理からぬことで、「解体新書」で有名な蘭方医・杉田玄白は、自身の患者の7~8割は梅毒であると語っているほど梅毒が日本全国で流行していたのです。「骨から見た日本人」(鈴木隆雄著、講談社学術文庫)によると、江戸市中の人骨調査では江戸の梅毒患者は50%を超えていたと推測しています。ただし、武士が祭られている墓地の骨と庶民のものとは差があり、梅毒罹患者は身分の低い方が多かったようです。
いずれにせよ、それだけ江戸時代は梅毒という恐ろしい病が流行していたわけで、効き目のある治療法がなかった当時は、患者は治癒を神仏に祈る以外にできることがなく、「笠森が瘡守に通じる」というので、笠森稲荷には多くの瘡毒(そうどく=梅毒)患者が詰めかけたと言われています。
性感染症の広がりの根底には、生活のために体を売らなければならない「貧困」と、性感染症への「無知」がありました。それは今も変わりません。いまだに日本を経済大国という人がいますが、貧富の差はどんどん広がっていて、いまや日本人の7人に1人が貧困にあり、ひとり親世帯の半分は貧困だと言われています。驚くべきことですが、「貧困はよその国のこと」「自己責任」と目を背けている間に、貧困は日本に広く深く忍び込んでいるのです。