世界一有名な画家ゴッホの奇行に唱えられる「梅毒説」
フィンセント・ファン・ゴッホは、「炎の画家」「狂気の画家」として有名です。わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、たびたび発作を起こして人間関係に失敗します。一途な性格で、女性に告白し拒絶されたにもかかわらず、女性の実家にまで追いかけていき、女性の両親が「そのしつこさが不快だ」というのにも耳を貸さず、手をランプにかざして「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください」と迫ったりします。
また、弟の仕送りで生活しているのにそのお金を絵のモデル代にあて、自身は歯が抜けるほど貧しい食生活をしながら絵を描き続け、少しでも送金が遅れると怒り出す。それを咎めると放浪の旅に出かけるなど、肉親でさえ理解しがたい行動を繰り返します。挙句の果てには、画家仲間であるゴーギャンから自身が描いた自画像の耳の形をからかわれると、腹いせに自ら左耳たぶを剃刀で切り落とし、それを新聞紙に包んで「この作品を大事に取っておいてくれ」という伝言と共に娼婦に送りつけるという「耳切り事件」を起こすのです。
その後、ゴッホは精神病院や民間療養所で入退院を繰り返しますが、その間に何度も発作が記録され、発作時には絵の具を飲もうとしたり、服毒したりしたようです。そして1890年12月に銃弾を受けた体で帰宅し、2日後に亡くなります。37歳という若さでした。なぜ、彼が銃弾を受けたのかについてはいまだにナゾです。定説は自殺ですが、弾丸の入射角が自殺とは断定しづらいというので、友人が所有する銃が暴発し、その友人をかばうために自殺を装った、などの説もあるそうです。