京成電鉄(下)オリエンタルランド誕生当時は「無力だった」
酒豪だった彼は漁協幹部を柳橋や日本橋の料亭で連夜、接待漬けにした、と伝わる。こうして、県知事、地元政治家だけでなく、ヤクザの懐にまで食い込んだ。接待工作が功を奏し漁民は漁業権の放棄に同意したと高橋氏自身が語っているという。
実は、ディズニーランドの日本への誘致の発案者は、京成電鉄の当時の社長の川崎千春氏だった。高橋氏は「ディズニーランドには、まったく興味がなかった」「競馬場をつくったほうがカネになる」と内心、考えていたそうだ。
高橋氏が「東京ディズニーランドの“生みの親”」と呼ばれるようになったのは、川崎社長の後を継いでOLCの2代目社長になったからである。
日本経済新聞の「私の履歴書」(1999年7月)で高橋氏はディズニーランドを成功させた手柄話を披歴した。これに三井不動産が激怒したと、経済界の裏の世界で話題になったりもした。
〈親会社の一つ(注・京成電鉄のこと)は無力になり、もう一つの親会社(同じく三井不動産)はやる気がないどころか、「ディズニーランドなんて前世紀の遺物だ」と足を引っ張るありさまだった〉と赤裸々に創業当時の大株主の空気を記したことが、三井不動産首脳の逆鱗に触れたわけだ。