両親が背負った日中卓球交流 原点は“ピンポン外交”だった
■宇さん誕生の翌年にピンポン外交成功
日中の卓球交流には、他競技とは異なる側面がある。
冷戦構造の真っただ中に、リチャード・ニクソン米大統領は日本の頭越しに中国を訪れ、当時の周恩来総理と首脳会談を持った。72年2月のことだ。日本もその年の9月、当時の総理大臣、田中角栄が中国に飛んで劇的な国交回復を果たすわけだが、こうした歴史的な流れをつくったのが“ピンポン外交”だった。
往年の名選手、荻村伊智朗が当時の日本卓球協会会長・後藤鉀二とともに中国に渡り、周恩来と面会した際に、71年3月に名古屋で開催される世界卓球選手権への参加を要請した。それを受けて来日した中国代表が米国選手団の中国招待を持ちかけ、それがキッシンジャー―ニクソン―田中角栄の訪中へと発展していく。文化大革命の間にスポーツから遠ざけられていた中国民衆にとって、この一連の外交発展は大きな刺激となり、卓球人気は中国全土へ、大衆へと広がった。
ピンポン外交の成功は、宇さんが生まれた翌年のこと。バスケットボールファンの父親が、友人がコーチをしていた卓球道場に息子を通わせたのも、そうした背景があったからだ。宇少年はメキメキ腕を上げ、13歳で四川省チーム、16歳でジュニアナショナルチーム入りと、将来の息子のような活躍をすることになる。