三菱重工退職後に不運連続 浴びるように酒を飲み肝臓は…
継谷はそう語り、続いて関学OBが経営する鮮魚輸送会社に勤めることになり、再び営業マンとしての手腕を発揮。「社長の片腕」と呼ばれるまでになった。仕事は順調、結婚もした。
ところが、好事魔多し。思わぬ問題に巻き込まれる。1970年代に入り、公害問題が深刻化していた。マスコミがPCBによる魚介類の汚染問題を大きく報じると、一気に会社は傾いた。面倒見のよい社長ではあったが、責任を取って自殺。継谷は破産した会社の残務整理に追われる一方、残された社長の家族の世話で疲れ果ててしまった。
■後輩の杉山を連れて2時間で5、6軒も
この頃から継谷は自暴自棄になったといわれる。毎晩のように繁華街に出向いては憂さを晴らすように酒を飲んだ。かつての三菱重工業時代のサッカー部が関西に遠征すると、後輩の杉山隆一たちを酒席に誘った。
「先輩、落ち着いて飲みましょう。今来たばかりじゃないですか……」
杉山がそう言っても1カ所の飲み屋に落ち着くことはなく、2時間余りで5軒、6軒とハシゴをするむちゃくちゃな飲み方。完全なアル中だった。当然のごとく肝臓をやられ、入退院を繰り返したが、それでも飲んだ。