三菱重工退職後に不運連続 浴びるように酒を飲み肝臓は…
1964年東京五輪・サッカー代表 継谷昌三さん(下)
将来を嘱望されつつも27歳の若さでサッカー界と決別し、勤務先の三菱重工業をも退職したオリンピアンの継谷昌三――。
大学時代の友人の話によると、継谷の実家は材木商を営む旧家で、かなり裕福だったという。
それが支えと甘えとなり、いとも簡単に三菱重工業をも退職したのかもしれない。だが、その後の人生は、あまりにも不運であり、悲惨だった。
■「商談を決めたときはゴールした気分」
ともあれ、実家のある神戸市に戻った継谷は、まずは材木会社に職を求め、ようやく望んでいた外回りの営業の仕事に就いた。継谷は友人に言っている。
「俺には営業が向いている。サッカーと同じで毎日走り回って売り込む。商談を決めたときは、ゴールした気分だ」
しかし、2年目を迎える頃だ。不況の波をもろに受け、会社は倒産してしまう。
「人生は長いしね。会社が倒産することもある」