大学時代にキャプテン務めた日本代表は厚生課の仕事に不満
1964年東京五輪・サッカー代表 継谷昌三さん(上)
いかにサッカーオタクといえども「継谷昌三」の名を知っている者は少ないはずだ。元日本代表監督・加茂周に彼の名を告げると、懐かしむように言った。
「継谷? 昌三だろう。大学(関西学院)時代の仲間で、東京オリンピックの代表に選ばれた中盤のええ選手だった。でも、若くして亡くなった。いろんな面で繊細だったかもしれん。死因は酒だろうな。よう神戸辺りで飲んでいたと聞いとる……」
身長167センチ、体重約60キロ、小柄ながら50メートルを6秒台で走る関学時代の継谷は、1959年アジアユース大会(マラヤ)や62年アジア大会(ジャカルタ)に出場。64年東京オリンピック開催の前年に三菱重工業に入社し、日本代表入り。将来を嘱望されていた有望選手だった。
「昌ちゃん、酒はほどほどにせんと。体にええことあらへんわ」
友人や昔のサッカー仲間から何度忠告されても、連夜のごとく地元神戸の繁華街に出没。ハシゴ酒に明け暮れていた。太った体でカウンターにもたれて、多少震える手でビールをイッキ飲み。日本酒もウイスキーも好んだ。それが晩年の酔いどれ継谷の姿だった。精悍な顔つきだった現役時代の面影は失せ、誰もが「継谷は完全なアル中やった」と語った。