「押し相撲は相手が引くまで押す」大栄翔の引かない16番、富士桜の信念を思い出す
「自分は引かねえと決める」と言い切った富士桜
「押し相撲は押して押してまた押して、相手が根負けして引いてくれるまで押すんだよ」
そう言ったのは、突き押し一筋で昭和天皇のごひいきだった「突貫小僧」富士桜(のちの中村親方)だ。引く誘惑に勝つには「自分は引かねえと決める。それしかない」とも言っていた。
実際には押し切れる相手ばかりではないから、横綱・大関を破った相撲などは徹底的に押してからのはたきや突き落としもあったが、確実に仕留められる時にだけ、自然に出たものだった。三役を10場所務め、アキレス腱断裂も克服して37歳まで取り、1985年春場所、朝潮の優勝パレードで旗手を務めて引退した。
翌場所の前、高砂部屋を訪ねると、引退したばかりの親方は若い衆に稽古をつけるのに、中村親方は違った。「まわし、締めないんですか」と聞くと、「だいぶやったですからねえ」と笑った。引退したのは稽古ができなくなったから。「押し相撲は稽古しなきゃ相撲にならん」と言った。
翌年独立してからは土俵に下り、定年までに4人の関取を育てた。中村部屋のテッポウ柱は、弟子たちの手が当たる所がのみで削ったようにすり減っていたものだ。
大栄翔と手数が多かった富士桜には違いもあるが、押し相撲の覚悟を貫いて自分の相撲を磨けば、見る人は見ていてくれる。富士桜の時代と幕内の状況も違うから、この反省を生かせば、また優勝のチャンスもあるはずだ。
▽若林哲治(わかばやし・てつじ) 1959年生まれ。時事通信社で主に大相撲を担当。2008年から時事ドットコムでコラム「土俵百景」を連載中。