28年間のスカウト人生は岡田彰布の父親にワインとアジの開きを手土産にしたことから始まった
「岡田彰布の家に行け」
上司から初仕事を命じられたのは79年2月。クラウンライターライオンズが西武に身売りされた直後のことだった。
71年ドラフト11位で阪神に入団した鈴木は、76年に太平洋へ移籍。球団は翌77年にクラウンライター、そして79年に西武へと名前を変えた。
鈴木は一軍通算96試合出場にとどまっていたこともあり、西武への身売りが決まった78年10月、当時の根本陸夫監督の意向で、同年限りで現役を引退。大東文化大時代の恩師である岡田悦哉二軍監督を通じて、「スカウトか審判か、どっちかをやれ」と告げられ、スカウト転身を決意した。スカウトのスの字もわからない中、伊豆で行われたキャンプに同行した鈴木は言う。
「根本監督は、宿舎の下田プリンスホテルでスカウト陣に『今日からスカウトをやらせる。何も教えるな。好きにやらせるから』とだけ伝えて。実際、好きなようにやらせてもらいましたけど、前年まで選手だったし、就任当初はいったい何をやればいいのかという感じでした」