「負けくらべ」志水辰夫氏
「負けくらべ」志水辰夫著
“シミタツ節”と謳われる独特の文体で数多くの冒険小説やハードボイルド作品を世に送り出してきた著者。本作は、実に19年ぶりとなる現代ものの長編小説である。
「今回あらためて現代小説に挑戦しようと思ったのは、同年代で書き続けている作家がいないことに気づいたから。この年になると体力がなくなるのか、はたまた満ち足りてしまうのか、なかなか書けなくなってくる。しかし、私はひねくれているので、いないんだったら自分が書いてやろうと思ってね(笑)」
本作の主人公である三谷孝は、謙虚で控えめな初老の介護士だが、特定の分野で優れた才能を持つ、いわゆる“ギフテッド”でもあった。彼が秀でているのは、対人関係能力や空間認識力、そして記憶力。その能力で認知症患者のケアを行う一方、極秘で内閣情報調査室に協力し、入院中の元外務官僚の病状を隣のベッドで探ったり、大規模な講演会の来場者の顔をすべて記憶して重複者を特定するなどの依頼を受けている。
著者は近年、現代小説から離れて時代小説を数多く手がけてきた。その理由を“時代を捉えきれなくなっていたから”と話す。
「ハードボイルド小説を書こうとするとき、物語の中で何か事件を描くわけだけれど、最近では現実世界でフィクションを超えるような凄惨な出来事が起こり過ぎて、何を書いてもしっくりこなくなっていました。それでも、やるなら新しいものを書きたいと思って、辿り着いたのが今回のキャラクターでした」
あるとき三谷は、IT企業経営者の大河内という男と出会う。年齢も立場も異なる2人だったが、大河内の複雑すぎる生い立ちに耳を傾けるうちに親密さを深めていく。やがて、大河内の母・鈴子の策略で役職を追われた彼を救うため、三谷も一族の抗争に巻き込まれていく。時代の残酷さ、老いの悲哀、そして生き抜く人間の強さが行間ににじむ作品だ。
「今作はこれまでの私のハードボイルド作品とは少し毛色が違います。最初は好き勝手に書いていたのだけれど、担当編集者に“もっと読者に寄り添わないと今は読んでもらえません”と言われてね。それで反省してだいぶ書き直しました。それでも本作を読んでくれた息子には“相変わらずだね”と言われてしまいましたが(笑)」
物語の前半はバディーものとして楽しめる。そして後半には、シミタツファン待望のハードボイルドが炸裂している。
本書の帯には、錚々たる作家陣からのコメントが寄せられているが、中でも夢枕獏氏にかつてかけられた言葉が記憶に残っていると著者は言う。
「もう10年以上前のことだけれど、獏ちゃんに“後に続く作家のために書き続けて欲しい”と言われたことがあるんです。志水辰夫がまだ書いているなら、自分も頑張ろうと思ってもらえるなら、書かなきゃね」
次回作には時代小説が控えており、次々回には再び現代長編に挑戦する予定だという。熟練作家の新たな作品が、今から待ち遠しい。 (小学館 2200円)
▽志水辰夫(しみず・たつお) 1936年、高知県生まれ。81年「飢えて狼」でデビュー。83年「裂けて海峡」で第2回日本冒険小説協会賞優秀賞、90年「行きずりの街」で第9回日本冒険小説協会大賞受賞。「青に候」「つばくろ越え」「疾れ、新蔵」など著書多数。