「ロスト・イン・ザ・ターフ」馳星周氏
2020年「少年と犬」で直木賞受賞後の第1作は、馬と人の物語「黄金旅程」。競走馬ステイゴールドがモデルの気性の荒い馬と、その馬に人生を託す馬産地の人々を描いたシリアスな作品だ。最新作である本書も競馬を題材にした作品だが、前作とは打って変わってコメディータッチ。
亡き兄が残した競馬バーを一人で営む倉本葵は、大井競馬場のパドックで、芦毛の牡馬に一目惚れする。ウララペツという名のその馬は、名馬メジロマックイーンのラストクロップ(最後の産駒)だった。ところが成績は振るわず、とうとう引退することに。このままでは肉にされてしまうかも……。葵は意を決して自分がウララペツの馬主となり、種牡馬にしようと動き出す。
■競馬が題材のラブコメディー
「前作の『黄金旅程』は生産者の目線で書いたので、今度はファンの目線にしようと思ったんです。でも、ギャンブルの話にはしたくなかったし、僕みたいに好きな馬をひたすら応援しているだけのファンの話では奥行きが出ない。それで、馬主になるファンの話にしました。ウララペツには実在のモデルがいるんですよ。ギンザグリングラスというメジロマックイーンの子で、馬主は女性です。で、女性を主人公にして馬の話を書こう、それならいっそのことラブコメにしてやろうと」
葵は、愛するウララペツのために奔走し、ウララペツの産駒がいつか中央競馬で走ることを夢見る。そんな葵を見守り、支える男たちがいる。老舗和菓子屋のぼんぼん、リッチな株屋、小さな育成牧場の経営者。彼らは葵をめぐって恋のさやあてを繰り広げる。度し難くも可愛い男たちなのだが、彼らの競馬愛は半端ではない。「競馬はロマンだ!」と心底思っている。
「競馬にロマンを求めているファンは多いですが、馬主となればなおさらです。大金を出して馬を買っても走るとは限らないし、デビューしないまま終わってしまう馬もいます。馬主たちは、この馬でもうけようとはしていない。では何のために馬につぎ込むのかというと、ロマンなんですよ。ダービーで走らせたいとか、滅びつつある血統をつなぎたいとか」
物語は「競馬はロマンだ!」と無邪気には終わらない。登場人物に「サラブレッドは悲しい生き物だ」と言わせている。
「勝たないサラブレッドを待っているのは死ぬ運命です。だから、少しでも長く生きるために頑張ってくれ、勝ってくれ、と思う。本当は競馬なんかないほうがいいのかもしれませんが、競馬を廃止したら、馬たちを養えなくなる。悲しいこともたくさんあるけれど、今生きている馬を生かすためにやめるわけにはいかない。全力で応援するしかないんです」
言葉から馬たちへの思いがあふれ出るが、意外にも競馬歴は浅く、まだ6年ほど。
「僕は北海道の浦河の出身なんですが、馬はいやでしたね。馬だらけの町で育った僕にとって、馬は田舎の象徴だったんですよ」
それが一変。なぜか競馬にどっぷりはまった。そして競馬という「物語の宝庫」に踏み込んだ。
「これからも、人と馬の物語を書いていきますよ」
(文藝春秋 1760円)
▽馳星周(はせ・せいしゅう) 1965年、北海道生まれ。横浜市立大学卒業。出版社勤務、書評家などを経て、96年「不夜城」で小説家デビュー。同作で吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。その後、「鎮魂歌 不夜城Ⅱ」「漂流街」などの傑作を次々に発表。2020年「少年と犬」で直木賞受賞。