「天使の跳躍」七月隆文氏
「天使の跳躍」七月隆文著
46歳の棋士、田中一義八段は、かつて5度のタイトル挑戦に敗れたが決して諦めず、プロ23年目にタイトル戦の挑戦権をつかみ取った。だが、対する相手は「令和の王」と称される若き天才。誰が見ても勝ち目はない。一義は無冠のままで終わるのか……。
「あるとき、『中年棋士のラストチャンス』というテーマがパーンと思い浮かんでしまって、ようやく将棋の世界を書く覚悟ができました。趣味として将棋を純粋に楽しんできたので、書くことを避けていたんですが、そろそろ腹をくくって作品にしようか、と。将棋を題材にした小説はいくつもあるんですが、トッププロ棋士同士のタイトル戦の番勝負をガッツリ書いたものは見たことがない。それで、中年棋士が無敵の8冠に挑む2カ月間の五番勝負にフォーカスしました」
対局の日、張り詰めた空気のなか、中年棋士と若き8冠が盤をはさんで対峙する。〈パチッ〉〈バチッ!〉〈バチィッ!〉と駒音が高まっていく。静かに座して戦う棋士の頭の中で何かすごいことが起きている。盤上が一面の荒野になったかと思うと、満天の星が広がる。棋士の脳細胞の動きまでが見えるようで、将棋を知らなくてもグイグイ引き込まれていく。
「対局を文章にするのは本当に難しくて。対局シーンに差し掛かったとたんに筆がピタッと止まるんですよ(笑)。泣きそうになりながら書き進めました。将棋をエンタメとして楽しく読んでもらいたいので、タイトル戦の一局一局にテーマをもたせて、挑戦者である田中一義の人生ドラマに一つずつ迫っていきました。連続ドラマのような読み方もできると思います」
将棋教室での幼い恋、過ぎ去った青春の光と影、弟子との絆、多士済々の戦友たち、そして家族の愛。一義はこれまでの人生のすべてを熱源にして、ラストチャンスに命を燃やす。
作中の勝負は荒唐無稽な作りものではない。対局のすべてに棋譜が載っている。棋譜を制作したのは、主人公のモデルにもなっている木村一基九段。作中の対局の流れに合わせて書き下ろしてもらった苦心の作だという。
「木村先生だけでなく、作品に登場する棋士の大半には実在のモデルがいます。棋士の先生たちって、本当に個性豊かで魅力的なんですよ」
迫真の対局シーンと棋士たちの人生ドラマを楽しむうちに、読者はいつのまにか将棋の世界にいる。
「僕のジャンル分けでいうと、この作品は『お仕事もの』ジャンルなんです。よく知らなかったけど主人公が生きている業界ってこんなふうなんだ、面白いね! という読み方ができるので、将棋がわからなくても楽しめます。約束します」
将棋愛とエンタメ精神にあふれたこの作品に刺激されて、将棋をやってみようかな、と一歩踏み出す人が現れそうだ。
(文藝春秋 2090円)
▽七月隆文(ななつき・たかふみ) 大阪府生まれ。京都精華大学美術学部卒業。2015年「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」で京都本大賞受賞。ほかの著書に「ケーキ王子の名推理」「100万回生きたきみ」など。ライトノベル、恋愛小説作家として知られているが、本作は新境地を開いた本格エンタメ作品。