元関脇の追風海関は故郷青森で“重すぎる町議”から県議に
2000年九州場所で自身最高位の西関脇に就いた追風海関、06年の初場所を最後に現役引退すると角界には残らず、故郷青森に戻った。
「中学卒業と同時に板柳(青森県北津軽郡板柳町)を離れたせいでしょうか。人一倍、青森愛が強く、政治家になって故郷のために尽くしたいと思ったんです。あと、日大相撲部1年の時、稽古中に頚椎が真っ二つに折れ、診察を受けたすべてのお医者さんから「キミはもう一生、スポーツできない体だ」と宣告されましてね。それが、母校である埼玉栄高校相撲部の山田道紀監督に紹介していただいた鳥取県の門下鍼灸師のおかげで、奇跡的に相撲が取れるまでに回復した。それだけじゃない。大学3年で学生横綱になり、大相撲では関脇までたどり着いた。ドン底を克服した、そんな自信が政治家を志させたのかもしれません」
■「相撲取りの人脈はものすごく幅広い」
板柳町では警備会社に勤務しながらアマチュア相撲を指導し、12年2月の町議選に「追風海直飛人」の名前で立候補。定数12人に14人が選挙戦に臨み、2番目の得票で当選した。その際に言われたのが“重すぎる町議”。もちろん、八戸市の“美人すぎる市議”に相対する呼び名だ。そして、14年9月、任期半ばで県議補選に出馬。自民党公認を得て初当選を果たした。