六文銭の一人だった及川恒平さんは今もバンド活動継続中
「最終的には100万枚売れ、世界十数カ国で発売されたと聞いてます。印税ガッポリ? とんでもない。レコード500円として、入ってくるのは1枚2円50銭ですよ。これじゃあ、たかが知れてるでしょ」
六文銭は72年に解散。70年代半ばからはフォークに代わり、松任谷由実に代表されるニューミュージックがもてはやされるようになった。及川さんは時代の流れに乗ることを潔しとせず、活動の場を縮小。阿久悠傘下の事務所に誘われたのを機に流行歌の作詞・作曲家に転身した。
「最初は阿久さんの詞に曲をつけていたんだけど、『出発の歌』の実績を見込まれ、作詞依頼がだんだん多くなりましてね。沢田研二、和田アキ子、青江三奈……。主立った歌手はほとんど書き、1000曲は作詞・作曲したんじゃないかな」
だが、5年ほど過ぎた頃、「流行歌の量産なんて自分のやることじゃないな」と悩み、事務所を辞めるだけでなく、歌の世界からも足を洗った。
「で、何をやったか? 驚くことなかれ、テニスのコーチです。高校時代に軟式庭球の経験があり、テニスコーチの資格を取って、約10年間、神奈川県内のテニススクールに勤めてました。たまに生徒たちとカラオケに行くと、“歌のうまいコーチだねぇ”なんて褒められたりして、ハハハ」