加藤登紀子さん E・ピアフに激突した東大劇研“女番長”時代
「ひとり寝の子守唄」をはじめ、「知床旅情」「百万本のバラ」などのヒットで知られる加藤登紀子さん。自身のコンサートのメイン曲として歌うのは、決まってエディット・ピアフの代表曲「愛の讃歌」だ。そのワケは……。
エディット・ピアフは1963年10月、私が二十歳になる直前に亡くなったんですね。ピアフの死は当時の世界的なニュースでした。いっぱい恋をし、ステージで倒れながら歌うピアフの姿を見て魅せられ、衝撃を受けていたので、その死はすごいインパクトでした。
私の家はロシアレストランでした。越路吹雪さんの歌やアズナブールやアダモのシャンソンのヒット曲がよくかかっていました。あの頃は音楽も文学も、吹いてくるのはフランスからの風でした。そんな時代に生意気盛りの私がエディット・ピアフに激突したというか。
大学では演劇をやっていたの。東大劇研の女番長のような存在。だから、みみっちい恋なんてカッコ悪いと恋愛を敬遠していたわけ。でも、ピアフに刺激を受けて、好きだった人に手紙を書いた。
「あなたをずっと好きでした。でも、あなたは気がつかない。こんな悲しい恋はない。今日限りあなたを恋人と思うことはやめます」と。
1週間返事を待ちました。だけど、返事がこない。やっぱり「サヨナラのラブレター」じゃ、ダメだったか、と見切りをつけて風を切って歩くみたいに街に繰り出したのね。そうしたら昔好きだった男の子が前から歩いて来るじゃない! 恋にピリオドを打った日に偶然にも。これは何かのお告げかしらと思って、その日のうちに彼をゲットしました(笑い)。これは大変なことになった、少しはピアフに近づけたなんて思って。大学に行って、もうつまらないことをやってる場合じゃないと、演劇も大学に行くのもやめました。
そんな不安定な娘を見た父はなんとか紐をつけておこうと思ったみたいなのね。シャンソンコンクールに申し込んできたんです。私はその提案に「なかなかいいんじゃない」と乗ったわけ。その時に歌ったのはなんたってピアフ。「メア・キュルパ(七つの大罪)」を歌いました。恋をしたら、みんな罪人になるという重たい歌です。男の子と初めてキスした程度なのに、いっぱしの恋をしたつもりだったのね(笑い)。
■「その顔で歌うのは無理だよ」と
コンクールでは自信満々で歌ったけど、落ちて4位でした。その時、審査員をやっていたシャンソン評論家の蘆原英了さんに舞台の袖に呼ばれたの。「君ね、その顔でピアフを歌うのは無理だよ」って。先生には赤ん坊みたいな顔にしか見えなかったのね、私が。それで翌年「ジョナタン・エ・マリー」という赤ん坊の顔に似合う(笑い)かわいいラブソングを歌って優勝しました。
デビューは66年。そのこともあるから歌手になってからピアフを封印したの。「愛の讃歌」は越路吹雪さんが岩谷時子さんの歌詞で歌っていたし、ヒット曲だから歌うまでもないかという気持ちもあって。ホテルやラウンジで歌うことはあっても、レコーディングはしませんでした。
変わったのは90年代になってからです。私が長年やっている「ほろ酔いコンサート」で、客席から「『愛の讃歌』は歌わないの?」という声が飛んできたのね。その時に「日本語の歌詞は元の歌詞と違うから」と言いつつも、ピアフ自身の書いた仏語の歌詞を思い出しながら、それをその場で日本語にして「もしも空が」とアカペラで歌ったわけ。それがキッカケで訳詞してコンサートで歌うようになりました。
私にとって大きな出来事は2002年。夫(学生運動の闘士だった藤本敏夫氏、72年に獄中結婚)が他界したことでした。2番の歌詞の始まりは「もしもあなたが死んで私を捨てる時も」です。あまりに生々しいのでしばらくは「愛の讃歌」を歌えなかった。歌うなら相当の覚悟がいると。それで迷いに迷って歌ったのが04年。それから気持ちに火がついたみたいで、自分と重ね合わせ、目の前が開けたというか。
ピアフは恋人が亡くなった後に歌っている。歌っている間だけは恋人に会えたんじゃないか。私も彼を送って2年が過ぎ、“一緒に生きる”という意味がわかった気がしました。05年の40周年のコンサートから最後に歌うメイン曲を「愛の讃歌」にし、レコーディングしたのがその2年後の06年です。