立川志の輔は最初から師匠に可愛がられた 俺とは大違い
学生時代は、五街道雲助師匠、三宅裕司さん、立川談之助師匠、立川談幸師匠、コント赤信号の渡辺正行さんや小宮孝泰さんらお笑いのプロを送り出した明治大学の落語研究会で活躍していたらしいのだが、その後、芝居をかじったか何かしてのサラリーマン人生……しかし「このまま人生を終わったら悔いが残る」ということで一念発起!! 「明日をもわからぬ芸人ごときにだけはならないでおくれ~」と泣きすがる女房を足蹴にし、談志に入門してきたのだから(女房のくだりは100%俺の創作なので他言しないように!!)「どーもー! 名前の通りピッカピッカの照雄ちゃんどぇ~す!!」というわけにはいかなかったのだろうけどさ……。
何をどーしてどーなったのかは立川一門の底辺の俺ごときが知るはずもなかったのだけど、師匠はあっさりと入門を許すどころか早々と「こいつは特別に俺が育てるから!」と俺たち弟子の前で宣言する事態に。ことは急激に進んでいくのであった。
今思うとあれって、えこひいきだったのだろうか? 何かというと、師匠は「やれ志の輔」「ほれ志の輔」となっていたような記憶もあるし……てか、なぜか神経質そうなミスター・ノイローゼ談洲兄さんの姿を目にしなくなったのもその時期あたりだったような? それってある意味、繊細な談洲兄さんが自分の存在感を消失してしまい、身を引いたのだろうか……ウ~ン、あまりにも長い時間が経ってしまい、その辺の記憶がまったく定かではないのが残念でならない。