芸能界の“ドン”渡辺晋に詰め寄った小柳ルミ子マネジャー(下)「お久しぶりね」を"デュエット"
ヒットを飛ばす歌手の裏には、必ず優秀なスタッフがいる。昭和46年に『わたしの城下町』でデビューした小柳ルミ子は南沙織、天地真理とともに"新三人娘"と呼ばれ、その後も『瀬戸の花嫁』『星の砂』などの名曲を残した。数多のライバルを退けて生き残ったのは本人の努力に加え、"芸能界のドン"と呼ばれた渡辺晋社長にも怯まずに意見したマネージャーの森弘明氏の存在があったーー。(全2回の2回目)※敬称略、名前や肩書きは当時
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昭和55年1月、渡辺プロダクションの社内には緊張感が漂っていた。森氏が小柳の次作の打ち合わせで現場から会社に到着すると、社長室から叱責が聞こえてきた。ドアを開けると、晋社長が「この歌詞でいいのか?」と渡辺音楽出版のプロデューサーに詰め寄っていた。
「筒美京平さんの曲は聞いていたのですが、松本隆さんの詞はその時初めて見ました。(同じ事務所の)太田裕美で実績を上げていた黄金コンビを、同期の担当プロデューサーが小柳に振ってくれたんですね。ただ、『五月雨女坂』というタイトルが目に入った瞬間、小柳には合わないなと思った。おそらく松本さんは太田裕美の座標軸と違いを出すために、演歌寄りにしたんでしょうね。晋社長も詞に納得せず、プロデューサーに『これでいいのか?』と聞いていたのです」
■「社長、私に下駄を預けてください」
そこで森氏は「社長、私に下駄を預けてください」と言い切った。直前にA面に差し替えた『星の砂』の実績もあり、晋社長は「じゃあ、おまえに任せる」と即答した。
「同期を救わなきゃいけないし、この場を収めなきゃいけない。小柳のためにどんな曲にしたらいいのか、自信もありました」
森氏は岡田冨美子氏に作詞を依頼した。TBSのタイムキーパーを経て作詞家に転身した岡田氏はのちに『ロンリー・チャップリン』『スシ食いねェ!』などのヒット曲を生むが、当時はまだ大御所の地位にはいなかった。岡田氏の書き上げた『来夢来人』は久々のヒットとなり、全国に同名のスナックが多数誕生するキッカケにもなった。
「『ザ・ベストテン』にはランクインしなかったですが、3年ぶりに10万枚を突破しました。願掛けで禁煙していた私に『タバコ吸ったら?』と言ってくれる人もいましたが、まだ解禁する気にはなれませんでした。一度決めた目標は、達成するまで守らなければ意味ないですからね」
森氏の意地がヒット曲を引き寄せる。昭和58年7月発売の『お久しぶりね』は有線から徐々に火がつき、年明けには人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)に初めてランクインした。この曲では森氏もコーラスとして参加した。
「『ベストテン』にも呼ばれて、2回出ましたよ。あの番組で歌ったマネジャーは最初で最後じゃないですかね(笑い)。司会の久米宏さんと黒柳徹子さんにマイクを向けられて喋っていたら、後ろのソファーにいた五木ひろしさんが笑っていました。2回目は、小柳が映画『白蛇抄』で最優秀主演女優賞を取った時の記者会見場から中継で出ました。ヒット曲も出ていなかったし、ちょっと変化をつけようとコーラスをしたんです」