山川豊さんとボクシングの縁 デビュー曲大ヒット後に伸び悩み「サンドバック叩きまくり」
10円ハゲができ、免疫力が落ちて副睾丸炎に
体の調子が悪くなり、夜は眠れないし、10円ハゲもできました。これはいかん、何かを変えたいと思いついたのがかつてやっていたボクシングです。飛び込んだのは当時まだ小さかった、五反田にあるワタナベボクシングジム。会長には「体を鍛えるために来ました」と言って。サンドバッグを叩いて叩いて叩きまくりました。その間も歌手活動は続けていました。でも、新人賞も取ったのに、地方の仕事に一人で行かされ、会社(東芝)の会議ではボロクソです。一人で荷物を持って歩いていてバッタリ会った知り合いに「どこに行くの?」と聞かれた時には、「友達の結婚式」と言うしかなかったですね(笑)。
それで旅から帰ったらジムでスパーリングの繰り返し。ある時、クタクタになって体力が落ちている時に病気になっちゃった。ジムは不衛生だし、免疫力も落ちているから菌を拾っちゃったんだね。病院に行ったら「ふくこうがん」って言うから、がんかなと思ったら、副睾丸炎だという(笑)。確かにパンパンに膨れ上がり、こすれて歩けなかったくらいだったから。
入院は10日間。病名は内緒にしていました。睾丸に熱があるから冷やしていたけど、お見舞いの人が来た時はバレるから、頭を冷やして(笑)。1日だけ仕事があって出かけました。帰ったのは夜中の0時。病院の入り口で守衛さんが「面会時間は終わっている」というので、「患者です。木村春次って言います」と言うと、「病人がなんで0時に帰ってくるんだ」と怒られて大変でした。
でも、練習しているうちに自信がついていくのがわかった。27歳でジムに入って、プロテストを受けることができるのは30歳まで。どうにかプロテストを受けた時の写真がこれです。歌手ですから顔が商売。合格してお披露目の試合を1回だけやらせてもらって、すぐにトレーナーの免許に切り替えました。
僕にとってはこの3年間が分岐点。それからは歌に専念し、その後いただいた「しぐれ川」に懸けてみようと5年間歌い続けました。これをやり切ってダメなら諦めよう、後は兄貴に任せようと決めていましたが、ありがたいことに藤田まさと賞を受賞することができた(91年)。それで92年に「夜桜」で紅白にカムバックしました。あの時、ボクシングという異なる世界を見てよかったと本当に思っています。